掃除の神様

掃除の神様。そう呼ばれる人と会うことになりました。僕があまりにも掃除嫌いでちっとも掃除をしないので、それを友人が心配したからです。
「掃除のことを考えると胸が苦しくなってどうしようもない」
と僕が言うと、友人は真顔で
「それは大変」
と言い、その場で掃除の神様に電話してくれました。掃除の神様は、掃除界隈ではとても有名な人らしいのです。
「そんなすごい人と話をすれば黒井も少しは掃除ができるようになるかもね」
友人の優しい心づかいを感じました。


掃除の神様は一年のほとんどを外国で暮らしているそうで、今回はたまたま仕事で日本に来るということです。僕は遅れないように、早めに待ち合わせ場所の喫茶店へ向かいました。約束の時間より30分くらい早く着いてしまったので、先に喫茶店で待っていることにしました。席についてアイスコーヒーとカレーを頼み、入り口のほうを見回してみましたが、まだ神様が来る様子もありません。僕は今のうちに神様に質問したいことをいくつかメモしておこうと思いました。

  • 掃除をするときに何を考えていますか?
  • 掃除について気をつけることはありますか?
  • 好きな食べ物はなんですか?

質問はすらすらと出てきました。そこでふと気づいたのですが、僕は神様の顔がわかりません。友人は「行けばわかる」と繰り返すばかりで特徴すら教えてくれなかったのです。入り口のほうばかり気にしていたけど、実はもう来ているのかもしれないと思って後ろを見ると老紳士が一人で紅茶を飲んでいました。そのいかにも神様っぽい姿から、この人に違いないと思い、声をかけてみることにしました。
「あの、ちょっとよろしいですか? ひょっとしてあなたは掃除の神様さんではないでしょうか?」
老紳士は少し考えている様子でしたが、何か納得した様子で深くうんとうなずきました。
「まあ、そう呼ばれることもあるかもしれない」
予想よりも、若くてはっきりした声でした。
「よかった。あ、失礼しました。僕は黒井と言います。今日は掃除の神様さんにお訊きしたいことが」
「その呼び方は恥ずかしいから、そうだな、吉田とでも呼んでくれないかな」
「すいません。そうですよね。わかりました」
「それで訊きたいことというのは?」
吉田さんはしきりに眼鏡がずり落ちるのを気にしていました。
「恥ずかしながら、僕は掃除というものが嫌いでして、掃除なんかなくなればいいとまで思っているんですが、吉田さんとお話ししたら何か掃除を好きになるヒントがあるんじゃないかと思いまして」
「うん。一ついいかな」
「はい」
「黒井くんは掃除をしたいのかい?」
これには困ってしまいました。正直なところ、僕は掃除なんてしたくありません。でも、それを言ってしまうと、今日ここに来た意味がなくなってしまうし、何より吉田さんに失礼な気がしました。
「ええと、それはその」
「私は掃除などしたくないよ」
「え? だって、吉田さんは掃除の神様なんじゃ…」
「それは私のことを知らない人たちが勝手にそう呼んでいるだけだ。私は掃除なんか嫌いだよ」
「そうなんですか」
「でも、掃除をするのは本当だ。仕事だからね。私は嫌いな掃除を仕事にしている。掃除はしたくないが、いや、掃除をしたくないからこそ掃除をしているのかもしれない」
吉田さんは冷めかけた紅茶をスプーンでかき回しながらそう言いました。
「そういうわけで、君が掃除を好きになる手助けのようなことは、私にはできそうもないよ。ただ、話を聞くことはできる」
僕は少しだけがっかりしましたが、吉田さんも掃除が嫌いだということがわかり、親近感をおぼえました。
「わかりました。かまいません。あの、少し質問を考えてきたのでよろしいでしょうか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
ごそごそとかばんからメモを取り出して訊ねました。
「吉田さんは掃除をするときに何を考えていますか?」
「たぶん何も考えていないと思う。これをこうしようとか建設的なことは何も考えない。そうだな、たまに猫のしっぽのことを考えるよ」
「猫のしっぽですか」
「しっぽが曲がった猫がいるだろう。猫はしっぽでバランスを取っていると聞くが、しっぽが曲がった猫はうまくバランスを取れるんだろうか」
「わかりません」
「私にもわからないよ。しかし、猫自身べつに気にした様子もないからそれでいいんだろうな」
「曲がったしっぽもかわいいですしね」
「ああ、確かにそうだ」
吉田さんはもう見るのもいやだという風に眼鏡をしまって笑いました。僕はメモに「ねこのしっぽ」と書きました。
「では、次の質問です。掃除について気をつけることはありますか?」
「どうだろうな。これは掃除に限ったことでもないかもしれないが、人間、気をつけようと思っていることほど忘れてしまうものだよ。だから、忘れてしまってもいいように、準備を入念にするんだ」
「それはなんとなくわかります。先ほど、掃除をしたくないから掃除をすると言ったのはそういうことですね」
「そうそう。黒井くんは物わかりが大変よろしい」
吉田さんはおどけた様子で言いました。僕はメモに「じゅんび」と書きました。
「これが最後です。吉田さんの好きな食べ物はなんですか?」
「もしかしたら、君と同じかもしれない」
「それはひょっとして」
僕はメモに「カレー」と大きく書きました。吉田さんはにっこりして、それから時計をちらりと見ました。
「私はそろそろ行かないといけないんだ。黒井くんと話せて楽しかったよ」
「僕も楽しかったです。今日はありがとうございました」
僕と吉田さんは握手をしました。吉田さんの手はつるつるして冷たい手でした。
「それでは」
そう言って、吉田さんはしゃきしゃき歩いていきました。その背中は仕事場に向かう職人の姿を連想させました。


夢からさめたような気分で時計を見ると、最初に約束した時間になっていました。外が少し騒がしいようでしたが、あまり気になりませんでした。メモをポケットにそっとしまってレジへ向かうとき、本当の掃除の神様のことを思い出しましたが、僕はすぐに忘れてしまいました。